夜歩き


白い原稿用紙を見ていた。万年筆からインクが垂れ、黒い染みを作った。
壊れ気味の万年筆からは文字を書くには洋墨がたっぷりと出過ぎるのだ。黒い丸は、なかなか紙に染み込まず、表面張力を保っている。思わず筆の先で、その小さな溜りをつついて崩した。黒い丸からは一本の線が棘のように突き出た。その棘の先でまた、筆先からはぼたり、とインクが滴り、大きな黒い水溜りを作った。今度は紙の上を滅茶苦茶に筆を走らせてみた。縦横無尽に蹂躙された原稿用紙は、最早使い物にならない。細い万年筆の筆先で、原稿用紙一枚を真っ黒にするのは並ならぬ労力とインクが必要である。それでもやらねばならぬ。ぐるぐると渦を書くと、先ほど走らせた直線と重なり、意外な模様を呈するのが面白い。円を書くのに飽きると、直線に戻ってガリガリとやる。大分と紙は黒くなった。精神病者の落書きのようだった原稿用紙は、僅かになった白い部分がまるで星の散らばる夜空のように見えてきた。
それに満足した関口は、暫く黒く塗りつぶされた紙を眺めていたが、急に徒労を覚え寝転がった。開け放しの窓からはひんやりと懐かしい匂いの風が流れ込んでいた。昼間はまだ暑いけれども、夜は肌寒いほどである。もう秋だった。
こんな夜の気配には、どこか胸の躍る心地がする。街灯をたよりにどこまでも夜の道を歩いて二度と戻らない。子供の頃の、物悲しい夢想に今も心を奪われている。
寄る辺ない子供の気分で、関口は薄い上着を引っ掛け下宿を出た。
宛もなく街をうろついていていた関口は、賑やかな通りのビルとビルの隙間に蹲る影を見た。浮浪者のようだった。そのまま横を通り過ぎようとして、息を呑んだ。
汚れた服の袖から見える腕はびっしりと水泡のような出来物で覆われている。関口の影に気付いたらしい浮浪者は、ゆっくりと顔を上げた。
視界が揺れる。脳がその顔を見るのを拒否した。関口は弾かれるようにその場から離れた。
甘い感傷も吹っ飛んでしまった今では急に人恋しさが募り、そのまま下宿戻る気にもなれず親友の中禅寺でも尋ねようかと思ったが、彼は最近結婚したのだった。学生時代のようにはいかない。
「そうだ、榎さん」
ひとつ上の先輩の榎木津が、確かこのあたりで働いていた筈である。榎木津は関口が頼りにしている数少ない人間の一人だった。関口は殆ど走るように彼のいる店に急いだ。

明治風のモダンな建物の地下にあるこの店は、彼の兄が経営しているのだという。人が出入りするたびに、開いた扉の隙間から音楽が一瞬聞こえてはまた途切れた。関口が何となく入るのを逡巡していると、後ろから肩を掴まれ、飛び上がるほど驚いた。
大男であった。米国の憲兵の制服を着ている。
関口が声も出せずに硬直していると、男は笑いながら扉を開けて関口を店に押し込みつつそのまま奥に歩いて行った。ほっとして店内を見回すと、演奏中の榎木津がいた。不真面目そうで、けだるそうな顔をして、たまにビールなぞ飲んでいるが、入り口の側に突っ立っている関口を目ざとく見つけたらしく、ギターを弾く指が速くなった。他の演奏者は何だ、というふうに彼を見ていたが、彼に合わせて曲調を変えていく。はじめはゆったりとした曲だったのが、終いには狂ったようなアップテンポの曲になっていた。客たちも盛り上がって大いに湧いていたが、熱狂もどこ吹く風で舞台袖に引っ込むと、すぐに彼は関口の所にやって来た。
「えのさん」
「出よう」
榎木津は関口の腕を掴んで店の外に連れ出した。
店内の澱んだ空気から解放されて、関口は大きく深呼吸した。冷たく心地よかった。
「榎さん、良かったの」
「いいさ、今日はもう仕舞いだ。お前はどうした」
「…別に、何となく」
「ふうん」
それぎり会話も途切れ、榎木津のアパートを目指して歩く。
榎木津は不思議な男である。側にいると安心するようでいて、実際は少し怖い。安心するというのは、少し違うかも知れない。彼の側にいるとありとあらゆるこの世の物事から隔絶されたような気になる。榎木津自身に対する畏怖とは別に、関口は今、自分を脅かすものどもを横目に呑気に歩いていられるのであった。
口笛でも吹きそうな関口に、榎木津は笑った。
「ご機嫌だな、安心してるのか」
「えっ…」
冷たく整った横顔を見上げ、関口は急に不安になる。
「ふふ、そんな顔するな。苛めたくなる」
「……」
綺麗な顔はまるで石膏像のようで毎度見惚れてしまう。関口の視線を捉え、榎木津が目を細めたのを認め、慌てて目を逸らした。 榎木津の部屋に来たからといって、別段何があるというわけでもない。寧ろ自分の部屋にいるよりも何もしない。床に散らばった雑誌や本を見たり、勝手に寝転んだりしてだらだらと過ごすだけである。そして此処は無風地帯だ。関口は榎木津が浴室に入っている間に、大きな寝台の隅に丸まってうとうとし始めた。恐ろしい夢の気配は感じなかった。

小猿のように眠り込んでいる関口を見つけ、榎木津はその傍らに座ると寝顔を覗き込んだ。安心しきっているらしい様子に微かに笑うと、煙草を銜えて火をつけた。
「まったく、だから子供は嫌いだ」
榎木津には関口と共通の友人がいる。
彼は関口の同級で、やたらと勘の働く男である。何を云わずとも導いてくれる彼を、関口は母親か何かのように信頼している。それが他ならぬ彼への牽制になっているのは皮肉な事だった。
――あれは、何も知ろうとしないのだ
彼は溜息交じりに零していた。しかし全幅の信頼を得ている間は関口を失う事もない。結局彼はそうして関口を懐の中に置いておく事を選んだのだった。それを怯懦と揶揄する気は無い。彼は関口の殆ど全てを手に入れている、ただ一つを除いては。その手に入らぬたった一つが、どれほど惜しい事か。
「お前には解らないだろうね」
榎木津は、長い間ほったらかしにされているのだろう関口の艶のある黒い髪に触れた。伸びた髪の間から覗く細すぎる首。狭く小さな背中と手の中に軽く納まってしまう薄い肩。手を伸ばせば簡単に手に入れられる、非力な体。人の心とは厄介なものだと榎木津は気の毒な友人に語りかけた。

榎木津の横で目覚めた関口はしばらく彼が起きるのを待っていたが、いっかな目覚めの兆しが無いので、そのまま起さずに部屋を出た。
曇天。
灰色の空の下の町は、どこか悪夢じみた不気味さがあった。それが関口は嫌いではないのだった。下宿には戻らずに大学の研究室に出勤し、夕方には中禅寺の家に寄った。美人の奥方に照れながら、夕食をご馳走になった。
「昨日は榎さんに会ったよ。泊めてもらったんだ」
「何で」
「いやね、夜に散歩に出たら――」
あの浮浪者を思い出して、関口は怖気を震った。
「…あのね、何でもない」
急に俯いて黙り込んだ関口に、中禅寺は呆れた声を上げた。
「何だい、小さい女の子みたいな云いぐさじゃないか。何かあったのか」
中禅寺は座卓に肘をついて関口に体を寄せると、その顔に触れる。
「関口君?」
頬の温かさに気が緩み、関口は顔を上げた。
「何でもないんだ。ちょっと怖いものを見ただけ」
「怖いもの?」
関口は躊躇った。病気の浮浪者を蔑むような事を云えば中禅寺は呆れるだろう。怒るかも知れない。この時勢に、まともな職に就き暮らしていける自分は僥倖なのだ。それというのも、この友人が常に側に居てくれたおかげだと、関口は思っている。
「――中禅寺」
「ん?」
「ありがとう」
「――――何なんだ、その誤魔化し方は」
「いや、君には本当に感謝してるんだ」
「だから、」
くすくすと笑いながら中禅寺の妻が果物の剥いたのを持って現われた。
「千鶴子」
「仲がよろしくて。何だか羨ましいですわ、学校の頃のお友達が懐かしい」
「まだ来たばかりじゃないか。今から実家に帰るなんて云うんじゃないだろうね」
京都から嫁いで来たばかりの彼女には、まだ知り合いが少ないらしい。関口は出された林檎を頬張りながら、呑気に云った。
「今度僕の知っている人を連れて来ますよ。同じ年頃だから千鶴子さんの話し相手になれると思います、彼女なら」
中禅寺の顔が、誰にも覚られない程度に曇った。
「――雪絵さんか」
「うん。いいだろ?」
「嬉しいわ。家にいてもこの石地蔵さんは本ばかり読んでいるし」
「地蔵はよかったな」
妻の雑言に云い返せないで頬杖をついている中禅寺を見て、関口は笑った。千鶴子と関口は主人をほったらかしにして、いつ頃紹介を実現しようかと相談している。
中禅寺は朗らかに妻と話している関口を見て感慨に耽った。
相変わらず人見知りは激しいし、内向的ではあるが、関口はそれなりに社会に順応していた。学生の頃、関口は本当に弱く痛々しかった。
今、この和やかさに心が休まるような愛情を、中禅寺は関口に持っていなかった。関口に庇護の手を伸ばしたのは支配欲の反動だったのだから。
「――いつでも連れておいで。雪絵さんなら大歓迎だ」
「うん」
関口は座敷を横切っていく猫に気を取られて、横顔を向けたまま上の空に答えた。こんな子供っぽさはいつまでも変わらない。髪の間から見える首筋の無防備さが、こちらをどれほど狂おしい気分にさせるか、関口は知らない。


「…痛い」
男は関口の訴えなどおかまいなしに体を動かしている。標本棚のガラスに映った浅ましい姿を、関口はぼんやりと見ていた。膝までズボンをずり下げて、飽きもせずに腰を振っている同僚はひどく間抜けで醜い。セックスに没頭する男は醜いと、関口は思う。犯される女の美しさには程遠いけれども、この男よりはマシだろうと、思わず笑った。
しつこく関係を迫られて、振り払うのも億劫だった。拒否して悶着を起すのも面倒なので、好きにさせている。どうせこんな事は長く続かない。


するり、と襟足の髪を榎木津の指が分けた。  赤い跡を白い指先がなぞる。
「…擽ったいや。なに?」
「跡。相変わらず防衛本能皆無の猿だな」
「……弱いなりの処世術っていうか…」
「どこが処世だ。死ぬぞ」
「――揉めるほうがしんどいよ」
榎木津は寝台にうつ伏せた関口を引っ繰り返して押さえつけた。
「それなら大人しくしてろよ」
抱き締めると、腕の中で関口の体は震えていた。
「嫌なら嫌だと云え」
「――――別に」
ほんの少し眉を顰め、榎木津は関口に口付けた。



榎木津の部屋で過ごす事が多くなっていた。
交際相手を友人の家に紹介しに行くというのに、今朝榎木津に愛されたままの体で彼女を駅まで迎えに来たのである。
「タツさん」
「待たせたかな」
いいえ、と微笑んで雪絵は嬉しそうに関口の傍らに寄り添った。
自分のどこが良いのだろう、と関口は思わずにいられない。榎木津を近くで見ていると特にそう思う。口数も少なくひたすら散歩するだけの逢瀬が彼女を楽しませているとも思えなかった。
「――あんな偏屈男には勿体無いくらい優しい奥さんなんだ。安心して」
雪絵は小さく可愛らしく笑って、ハイ、と答えた。
「中禅寺、来たよ」
戸を開けて中に声を掛けると、はあい、と軽やかな声が飛んできた。

二、三の会話で女たちは意気投合したようで、今や男をそっちのけで楽しそうである。
「良かった。気が合ったようだね」
「ああ有難う。千鶴子も随分と気が晴れるだろう」
関口を促して縁側から庭に出た中禅寺は煙草を銜えた。先に吸っていた関口から火を移す。
「結婚は考えているのか?」
「――今は…まだ、そんな余裕無いよ」
急に虚ろになった関口に、中禅寺は胸を掻き毟られるような気分になる。
「君は、どうして結婚する気になったんだい?」
不意に顔を上げて、関口は中禅寺に問うた。
黒目の大きい瞳。目蓋を伏せている時にしか見えない奥二重の線に、中禅寺はいつも目を奪われてしまう。
「――――、昔からの馴染みだからね。他の女性は考えられなかった」
「そうか」
随分と曖昧な答えだが、僅かに中禅寺は動揺したのだった。関口が聞きたかったのは多分、どうしたら法に縛られた繋がりを持って、他人と一生を共にする覚悟が出来るのかという意味なのだろう。
「…遅いな、榎さんは。来ると云ってたのだろう?」
中禅寺は縁側に置いた灰皿に短くなった煙草を押し付けた。
「うん、でも榎さんは寝坊だろう。今頃起きたかもしれないね」
関口はそう云うと、やけに甘ったるい笑みを口許に残した。


結局榎木津が中禅寺の家に来たのは夕方も過ぎた頃で、関口と雪絵は待ちくたびれたと云って帰ってしまった後だった。
「今頃何しに来たんだね、あんたは」
「千鶴さんのご飯食べに」
「うちは飯屋じゃないよ、雪絵さんが残念がっていたぜ」
「ふふ、雪ちゃんには個人的に挨拶に行こう」
「よせって」
夕食が済むと、殆ど喋りもせずに榎木津立ち上がった。
「何だ、本当に食べに来ただけなのか」
「ん?」
榎木津は伸びをしながらきょとんと中禅寺を見た。
「いつもなら食べた後寝転んでぐだぐだするだろう、榎さんは」
帰り支度をしながら榎木津は何でもないように云った。
「関が最近下宿に戻りたがらないで、僕の部屋にいる」
「何でまた」
「知るか。お前の所に来られなくなったからじゃないか?可愛がってるのさ」
ああそれで、と中禅寺は得心した。
昼間の、榎木津の話をする時の甘い貌。昔から関口は榎木津が好きだった。それは恋愛感情というよりは、全てから無関係に超越した彼の存在が関口には好ましかったのだ。榎木津の側にいれば――彼の手の内にあれば、それは楽だろう。それに、関口は自分では否定するだろうがかなりの面食いなのだった。
「抱いたのかい」
「他の男に無理矢理犯られてるより良いだろう」
中禅寺は口許を覆って、頬杖をついた。
「あいつはお前の躾けの範疇外では滅茶苦茶だな。昔よりは取り繕うのが上手くなったようだが中身は変わらない。頑是無い。我侭だ」
外套を着終わった榎木津は中禅寺を見下ろした。
「任せるよ」
中禅寺の苦痛に満ちた声に、榎木津は労わるような笑みを見せた。
「あまり我慢するなよ。本当に欲しいものは手に入れたほうが良い。何を犠牲にしても」
榎木津の足音を聞きながら、中禅寺は嗚呼と溜息をつく。


アパートの部屋の窓を見上げると、灯りは点いていなかった。今日くらいはさすがに自分の下宿に戻ったかと思いながら、部屋の鍵を差し込んだが、鍵は回らない。扉はもとから開いていた。
「関?いるのか」
手探りで寝台横に置いた電気スタンドを点けると、関口はいつものように隅に丸まって眠っていた。
「関、」
わざと寝台がきしむように座ると、関口は瞼をぎゅっと閉じてから、ゆっくりと開けた。
「う…。あ、榎さん?お帰り」
丸めていた体をくてん、と力なくぺしゃんこにして、関口は少し笑った。
「お前、雪ちゃんを送って行かなかったのか」
「送ったよ。新宿駅まで」
「そりゃ送ったとは云わない。お前が先に電車降りてるじゃないか」
「あそっか…」
へへ、と関口は照れくさそうに笑った。
「こんな小猿の何処が良いんだろうなあ」
「――僕も、そう思う。そのうち、雪絵さんも嫌気がさして離れると思う」
少しも落ち込んだようでなく、そう云う。榎木津はこんな関口の無神経さが憎らしいとは思わない。要するに自分の事でいつも精一杯なのである。
「榎さん?」
「抱っこしてやろうか」
暫くじっと関口を見ていた榎木津は唐突に云った。関口は何と答えて良いのか分からずに抱き寄せられるままになっている。
「今日は疲れたよ…もう寝ようよ」
「お前は寝てばっかりじゃないか」
「うん…じゃあどこかに行こう」
「どこに?」
「榎さんと一緒ならどこでも良いや」
酩酊の感覚が榎木津を奪った。溺れてかけている自分を愉快だと感じている、その思考だけがやけに鮮明で、この惑溺はあるいは自分のものではないのかも知れないと榎木津は思った。先ほどの中禅寺の「任せるよ」という呟きが甦る。
榎木津の腕を退けて、関口は窓を開けた。夜の匂いが部屋に流れ込む。窓に乗り出して外を見ている関口を背中から抱き締めた。
「星の下をねえ、ずっと歩いて帰らないんだ。そういう夢を見てた」
「僕と一緒にか」
「ううん、一人で。だから寂しかった。榎さんがいたら楽しかったのに」
「いいよ。行くよ。今から出るか」
擽ったそうに笑った関口を振り向かせてキスをする。そのまま寝台にそっと倒して抱え込んだ。
「――やっぱり今は眠りたい。榎さん、電気消して」
「ああ」
くるりと猫のように丸くなった関口は、頭を榎木津の胸に押し付けたまま眠ってしまった。


週末、関口がふらりと訪れた。
妻の外出を知ると、「実家に帰ったのか」と真顔で云うものだから頭に来るのだか可笑しいのだか判らない。
「今日は何だい」
茶を入れてやりながら中禅寺はぼんやりと庭を眺めている関口に声を掛けた。
「別に。用が無きゃ来ちゃ駄目なのかい」
「そんな事は云ってない」
「不便だね」
関口のぽつりと漏らした言葉の意味を、中禅寺は汲みかねた。
「君が結婚してからは、用がなければ君に会えなくなってしまった」
庭から視線を外さずに、関口は続けた。
「学生の頃の連中とも、とんと会わなくなったな。やはり生活圏が離れると、疎遠になっていくものだね」
「新しい環境での付き合いが優先されるのは当然の事だよ」
答えながら、中禅寺は思いがけない自分の険のある声に驚いたが、関口は全く気にしていないようだった。
「そうだね。寂しいとは思わないんだ。寧ろほっとしている――僕は。君ともいつか離れてしまうんだろうか」
中禅寺は思わず膝立ちになって、関口の腕を掴んだ。
関口の目が見開かれた。今、初めて相手に気付いたような表情。それが中禅寺の癇に障る。
「何を――何を、君は。僕がどれほど」

中禅寺ッという悲鳴だけが、彼を逃がしてしまった後も耳から離れなかった。

「ただいま」
戻ってきた関口は、心ここに在らずといった風情で榎木津の足許に座り込んだ。
昼過ぎに中禅寺の所に行くと云って出て行った。見れば襯衣の釦は千切れているし、手首には痣が出来ている。理性の権化であるかのような、あの男らしからぬパセティックさに、榎木津は心なしか微笑んだ。
服を脱がせ、傷つけられた体を点検する。寒いのか、少し震えている関口を抱き上げて浴槽に入れると、シャワーから湯を迸らせた。 榎木津は浴槽の縁に腰掛けて、煙草を吸いながら関口に問うた。
「どうする。どこかに行こうか。お前の好きにしよう」
「……うん、うん」

夜の街の匂いが榎木津は好きだった。ゆっくりと、時折後ろを振り返りながら歩く。関口は街灯の下で立ち止まったり、また小走りに追いついてきたりと忙しない。
車の排気ガスや明るいネオンのせいか、思っていたほど星は綺麗には見えない。上を向いたまま歩いている関口に、榎木津は笑う。
「うーんよく見えない」
「ここじゃ駄目だ関。もっと遠くまで行かないと」
「そうだねえ。どこまで行こう」
関口は楽しそうだった。昼間あった事にも今は少しも堪えていないように見えた。他の男なら関口は慣れているのかも知れない、だが誰よりも信頼していた友人に犯されたというのに、榎木津には関口の気持ちは理解できない。出来ないのが当たり前なのだから、口出しはしない。勿論中禅寺に対してもである。
「関」
追いついて来ない関口に気付き、榎木津は振り返った。関口は何も無いビルの壁を見て突っ立っていた。
「どうした」
「あれ…」
二十センチもない建物の隙間を指差して、関口は蒼白になっている。
榎木津は関口の頭上を見た。彼が今見ていると思しきものは何も見えない、という事は、関口が見ているのは現実のものではないのだ。
「死んでる。…こないだ見たときは、生きてたんだ。体中爛れて」
関口の肩を掴んで抱き込む。焦点の合わない目で榎木津を見上げた関口は急に嗚咽した。
「関、見て御覧。そこには何も無い」
榎木津の声に応じて関口はゆるりと首を黒い隙間に向ける。
「本当だ…僕、おかしいね。こんな所に人が入れる筈ないのに」
目許を拭っている関口の手を引いて、榎木津はまた歩き始めた。
「どこまで歩いたって立ち止まった先で何かに囚われる。我侭だな、自分以外のものに心を割かれるのがそんなに嫌か」
いつの間にか川縁を歩いていた。人気が無く、虫の鳴き声と草の匂いがする。
風に吹かれて葦が揺れていた。
「――関わりたくない、僕は何にも」
「中禅寺を、お前はあれほど信頼していたじゃないか」
「大切な人だよ。今もずっと――甘えてばかり来たからね。今のままではいられないよ」
「お前は変わるのが嫌なんだろう。だから今いる場所から居なくなりたいと願うんだ」
「榎さん」
「僕はお前をいくらでも甘やかしてやるよ。ずっと可愛がってあげる。…どうする、連れて行ってやろうか」
関口は唇を噛んだ。
「榎さんは、いつも僕に選ばせるんだね」
「選んでくれ。僕がお前に求めるのはそれだけだ」
古い橋の欄干に凭れて榎木津は微笑した。全てを許している、その目はあまりに優しくて、関口は発作的に欄干に脚を掛けた。
水に落ちた履物がバシャンと音を立てた。
「この川は浅い。飛び降りても怪我をするだけだ」
榎木津は関口の胸に腕を回してそっと橋の上に下ろした。
「……もう、行けないよ。裸足じゃあ歩けない」
「馬鹿、遠出するのに草履で来るやつがあるか」
片方だけ残った関口の草履履きの足先を見て、榎木津は笑った。それから関口の腕を肩に掛けて屈み、軽々と背負った。
もと来た道を戻って行く。
「……明日、」
「ん?」
「明日、もう一度中禅寺に会いに行く」
「ああ、それが良い――」
広く暖かい背中に負われて関口は子供のように泣いた。榎木津に星が綺麗だとあやされ急に決まり悪くなった関口は、むやみに脚をぶらぶらさせて残っていた草履を落としてしまった。
「あ」
川の縁に生えていた雑草に弾かれて、堤防を転がり落ちた草履はすぐに見えなくなり、小さな水音が聞こえた。

 

何をするでも無く神社の拝殿でひとり現を抜かしていた中禅寺は耳を疑った。
弱弱しく自分を呼んでいるのは関口の声だった。
飛び起きて格子戸を開けると困ったような顔で関口が立っていた。
「千鶴子さんに、君ならここだって――」
皆まで云わせずに関口を抱き寄せ、何度も何度も髪を撫でてきつく抱きすくめる。
さらさらと心地良い着物の生地に包まれて、関口は体の力を抜いた。




あのビルの前を通る度、関口は男の死体を見る。けれども幻だと分かっているから恐ろしくはない。見る度に骸は朽ち、今では白い骨があるばかりだった。いずれそれも風に吹かれて消えてしまうだろう。
あれは自分だ。
全てを置いて逃げ去りたいと願った自分の成れの果ての姿だ。
中禅寺は関口の話をじっと聞いていたが、戻って来てくれて良かった、と云った。関口は中禅寺の膝枕で髪を撫でる指を感じながら、それでもいつか出掛けたまま戻らない日が来るのを望んでいるのだ、と心の中で一人ごちた。

夜はどうしてこんなにも懐かしい。
闇に消え入る道の先に、この身も溶け込んでしまえたら。

「中禅寺、ごめんね」

繋がれた手の暖かさが、これ以上ないほど慕わしく、哀しかった。




おわり
(2005/10/17)








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